深 層 を 読 む(2018年)

2018/2/11 「『シャープ・パワー』の時代か?」

(石澤靖治 学習院女子大学教授・前学長)  

 言葉遊びをするわけではないが、これからは「シャープ・パワー」の時代になるのだろうか。 
 国家の軍事や経済の力を「ハード・パワー」とするならば、国家としての文化的あるいは社会的な魅力が「ソフト・パワー」。アメリカが覇権国であり続けてきたのは、この両方のパワーがあったからこそだとかつて説いたのは、ジョセフ・ナイである。それに乗って日本も自身のマンガやアニメ、和食などにそれがあると認識して、遅ればせながらその促進を図ってきた。一方で、「ソフト・パワー」によって紛争が解決できるわけでなく、厳然としたパワーゲームが存在するという当然の指摘もなされるようになった。そのためか、ナイもソフト・パワーよりも、むしろ「ソフト・パワーとハード・パワーを融合、あるいは二つを巧みに使い分けるスマート・パワー」という概念を提唱するようになった。 
 そこへきて、昨年12月から出てきたのが「シャープ・パワー」という言葉である。この考えは世界に民主主義を広げることを目標に掲げる全米民主主義基金(National Endowment for Democracy:NED)が発表し、フォーリン・アフェアーズ誌でナイがそれを紹介している。このNEDは国内的には超党派の組織だが、海外での活動は米国の国益に沿った政治性をもっているとされる。
 この「シャープ・パワー」とは、これまでは次元を超えた強烈な国際情報戦略のことである。具体的には、2016年の米大統領選でロシアがフェイスブックやツィッターを介して、虚偽の名前を数多く使い分けてアメリカの世論を大きくかき回すような情報を拡散したり、民主党本部にハッキングを行って選挙戦を混乱させた出来事。また中国がアメリカ国内において中国への批判的な考えを発する研究者や、中国から来た留学生の反中国発言を封じ込めようとする動きなど、巧みに自らの存在や強制性を隠して相手の国家の中に踏み込んだ情報活動を指している。 
 これまで国家の考えを発信する活動は「パブリック・ディプロマシー(文化外交、対外広報外交)」として、アメリカもロシアも、中国も積極的に行っており、それらは基本的に国家が行ってしかるべきものとして、肯定的にとらえられてきた。そしてその基盤となるものが国家の「ソフト・パワー」だった。したがって、中国政府が自らの「ソフト・パワー」を「パブリック・デモクラシー」戦略の一環として、アメリカ国内に中国政府のバックアップを受けた中国の語学・文化教育機関である孔子学院を設立することなどを問題視することはほとんどなかった。
 ところが、「シャープ・パワー」とは、こうした国家のパブリック(おおやけ)なコミュニケーション活動ではなく、中国に対する批判をアメリカ社会において強引に封じ込めようとする点や、水面下で出所不明な情報を、サイバーの特性を生かして、瞬時にそして大量に流布させている。
 アメリカ、中国、ロシアをめぐる国際情報戦略は新たな次元に入った。もちろんそれに日本も無縁ではない。

2018/2/2 「トランプ『外交』の1年」

(滝田賢治 中央大学名誉教授)  

 アメリカ国内外に激しい波紋(echo)・反響(repercussions)を引き起こしながらトランプ政権が成立してから1年が経った。その対内的発言や行動が国内的亀裂を深めたという評価は定着しているといえるが、その外交はどのような結果を引き起こしてきたのか。そもそもトランプ政権には「外交」といえるような政策・行動は存在するのだろうか。今更言うまでもなく、外交とは国家の存続(survival)を大前提にしつつ、国家・国民の発展・繁栄を図るための行動である。独裁や権威主義体制の国家ならばいざ知らず、一定程度、民主主義が担保されている国家においては、内外政策を実現するためには国民=有権者の影響を受けざるをえないので、有権者や利益集団・社会セクターの多様な要求を考慮せざるを得ない。しかしこれまた今更言うまでもない初歩的なことだが、彼らの要求はしばしば相互に激しく対立するため、政治的指導者は議会内外の世論を観察しつつ政治的リスクを覚悟して具体的行動に踏み出さざるを得ないのである。傍若無人に振舞っているかに見えるトランプ大統領もこの政治的制約に拘束されているのである。
 こうした大きな制約に加えて様々な要因がトランプ政権の「外交」不在という印象を全世界に与えているのである。
第1に、国家・国民の存続と繁栄を図るための大戦略が決定的に欠如していることである。アメリカという国家の存続はもちろん、そのための発展・繁栄を実現していく具体的政策のプライオリティと相互連関性が曖昧なままである。どの国家も自国第1なのだからAmerica Firstという政治的スローガン自体に問題があるわけではないが、このスローガンの下での安全保障政策と国際経済政策それぞれのプライオリティが確立されていないばかりか、これら2つの政策の相互連関性が見えてこない。安全保障政策に関しては、中露に加えて北朝鮮・イランさらには世界的に拡散してしまったテロ集団に対する政策的プライオリティが明確でないどころか絶えず揺らぎ、国際経済政策に関しては、通商・金融的覇権を確立しようとする野心・野望を露骨に誇示し始めた中国への対応も融和政策と強硬政策の間で揺れて首尾一貫していない。
 第2に、Make America Great Again ! America First ! をスローガンとして掲げたこと自体は問題ではなかったが、イスラム教徒やヒスパニックを対象とした移民制限を公言したばかりか彼らに対する侮蔑的発言を繰り返して現実にはAmerica FirstがWhite American Firstとして表出し人種間・社会階層間の国内的亀裂を拡大させたため、トランプ政権に対する国際的威信と信頼感を喪失させアメリカ外交の影響力を低下させる結果となった。その象徴はイスラエルのアメリカ大使館をテルアビブからイェルサレムに移すという決定であった。シリア内戦とクルドの独立志向・イランの核開発疑惑・イェーメン「内戦」をめぐるサウジ=イラン対立など深刻な問題が錯綜する中東地域においてパレスチナ問題の「調停者」としての役割を最終的に放棄してしまった。
 第3に、America FirstがWhite American FirstとりわけPoor White American Firstと「重厚長大」産業優先として結晶化したため、トランプ政権はNAFTA再交渉やTPP不参加ばかりでなく地球温暖化対策としてのパリ協定からの離脱に舵を切ったのである。AIやIoTを中心とした第4次産業革命が急展開している現在、「重厚長大」産業の保護を重視する内向きの(inward-looking attitude)政策は、大国アメリカの急速な凋落を意味するだけである。「重厚長大」産業の拠点であったラストベルトの労働者の票を当てにして多国間経済枠組みを否定し、地球温暖化対策としてのパリ協定からの離脱を宣言したものの、1月末のダボス会議や一般教書演説前後にはそれまでの発言を大幅修正するかのようなポーズを見せ始めた。通商問題や環境問題がアメリカも深く組み込まれた地球的規模でのシステムであることを1年たってやっと認識し始めたようである。内政・外交のリンケージを理解していなかったトランプ大統領が、リンケージを渋々認めざるをえなくなった結果、場当たり的な対応をしつつあるのである。
 第4に、ある意味では最も深刻な問題であるが、政治的任命者(political appointees)が絶対的に不足していることが指摘できる。特に外交を担当する国務省人事が停滞しているため、外交不在が深刻化しているのである。国務省内でNo.3ともいうべき国務次官の6つのポストのうち2月初旬現在5つが空席となっている。経験豊かな専門家の助言を参考にしつつリーダーシップを発揮することができないことがトランプ外交不在の根底に横たわっている。
 11月の中間選挙を意識した一般教書演説では、野党民主党への協力を呼びかけ、外交政策では若干ではあるが国際協力的姿勢を見せ始めたトランプ大統領ではあるが、内外政策のリンケージを認識して、大国らしい組織的でシステマテックな外交を展開し始めることができるであろうか。
 

2018/1/26 「愛国心とは」

(蟹瀬誠一 国際ジャーナリスト・明治大学教授)  

 サッカーの起源は諸説あるが、私はイングランド説が気に入っている。
 8世紀頃、サクソン人(英国人)がスカンジナビアから攻め込んできたデーン人を打ち負かし、切り取った敵の将軍の首を蹴飛ばして勝利を祝ったという説である。想像しただけでも血生臭く残酷な話だが、当時の男たちの荒々しい勝利の雄叫びが聞こえてくるようで心が躍る。伝説はこうでなくてはいけない。そういえばサッカーボールの大きさはちょうど人間の頭ぐらいではないか。
 それと比べれば、2006年のベルリン・ワールドカップ(W杯)決勝戦で起きたフランス代表主将ジネディーヌ・ジダン選手の頭突きなど可愛いものである。ピッチ上でイタリアのマテラッツィ選手との間でどんなやりとりがあったのかすぐには明らかにならなかったが、後に汚い言葉での罵り合いだったことが判明している。
 ベルリン大会では、お祭り騒ぎに終始した日本のメディアが報じなかった重要な出来事があった。それは主催国ドイツでの愛国心の復権である。
 ナチスの残虐行為という重い歴史を背負ったドイツでは、愛国心はこれまで「汚い言葉」とされてきた。極右の軍国主義を想起させたからである。2006年W杯では老若男女が祖国の国旗を誇らしげに振りながらドイツ中を練り歩くことができた。その光景を欧米のメディアは、「ドイツが第二次世界大戦での敗戦から半世紀以上かけてようやく“普通の国”に戻った」と伝えていた。
 ドイツチームは準決勝で姿を消したが、ドイツ国民はW杯開催によって名実ともに国の誇りを取り戻したというわけだ。それは1936年にヒトラーがナチスのプロパガンダとしてベルリン・オリンピックを開催したのとは違い、国民が歴史の重圧から開放された瞬間でもあった。羨ましいかぎりである。なぜなら同じ敗戦国である我が国では愛国心はまだ「汚い言葉」のままだからだ。
 現地であれほど「ニッポン!ニッポン!」と絶叫し、日の丸を振り、君が代を口ずさんでいた日本人が、ひとたび国に戻れば国旗や国歌にソッポを向く。そのくせ北朝鮮にミサイルを発射された途端に,政府もメディアも国民も慌てふためいて国防を語り、先制攻撃もやむなしなんて議論まで噴出する。軸の曲がった駒のようにフラフラしていて、危険極まりない。
 過去の克服と国際協調にゆれたドイツは、冷戦の終焉とともに一国主義から多国間主義にシフトし、非人道的行為を阻止するためには同盟国としての責任を果たすという選択をした。背景にはその政策を支持する国民と、ようやく取り戻し始めた祖国に対する誇りと愛があるのだ。
 敵国の大将の首を切り取って蹴飛ばし喜んでいた頃から比べると、我々人類も多少は進歩したのだろう。そういえば米国の政治家アドレー・スティーブンソンは以下のように語っていた。「愛国心とは一時的な熱狂的感情の発露ではなく、人生を通した穏やかで安定した献身である」。

2018/1/15 「裁判劇テロ」

(蟹瀬誠一 国際ジャーナリスト・明治大学教授) 

 7万人の命を救うために一般人164人を殺してもいいのか。
 そんな究極の選択を視聴者に迫る衝撃のドイツドラマ『裁判劇テロ』が日本で初めてスカパーAXNミステリーチャンネルで放映された。私はその3時間生放送番組の司会兼パネリストを務めたが、テレビの前の視聴者がリアルタイムで裁判員として参加し被告の有罪、無罪を決めるという内容だっただけに予想を超える大反響。テロ対策のジレンマが浮き彫りになった。
 なにしろモラルと法律のジレンマで胸を掻きむしってもすっきりとした答えが出ないからだ。
●シーラッハの罠
 原作は著名なドイツ人刑事弁護士で作家のフェルディナント・フォン・シーラッハの最新作『テロ』(2015年。)2009年のデビュー作『犯罪』が世界的なベストセラーになったからご存知の方もいるだろう。
 物語は、ドイツ上空で乗客164人を乗せた旅客機がハイジャックされたところから始まる。テロリストはその旅客機で7万人の観客で溢れかえったサッカースタジアムに突入しようとしているのだ。まさに9・11米国同時多発テロを想起させる状況である。
7万人を救うために154人を犠牲にしていいのかという選択に迫られたエリート空軍少佐コッホは独断でミサイルを発射して旅客機を撃墜してしまう。法廷に被告として立たされた彼は英雄か、はたまた犯罪者か。
 結末は有罪と無罪の2つのバージョンが用意されていた。
●航空安全法を巡るドタバタ
 背景にはドイツで大議論となった航空安全法がある。2001年の米国同時多発テロ後、ドイツではハイジャックされた航空機が武器として使用される恐れがある場合には連邦軍が撃墜してもよいという航空安全法が2005年に施行された。
 しかし、翌年の2006年に連邦憲法裁判所は航空安全法は一部違憲だとの判断を下し、現在は停止状態にある。ハイジャック機の撃墜によって乗客の生命を奪うことは「人間の尊厳」「生命の権利」を侵害する行為だというのはその理由だった。このあたりはナチス時代の暗い歴史が色濃く残っている判断だ。
●有罪
 検察側の主張は主に以下の3点。
1)7万人と146人の命を天秤にかけることは出来ない。
2)スタジアムにただちに避難命令を出していれば7万人の観客が避難できる時間があり、誰一人命を危険に晒さずに済んだ。
3)ブラックボックス解析によれば、旅客機が撃墜される寸前に乗員乗客がコックピットに突入しようとしていた。つまりテロリストを制圧した可能性があった。
 結論は、モラルや良心の問題に確実なことはない。だから個々のケースを憲法に照らして判断することが法治国家の本質である。ゆえに被告は有罪だというわけだ。
●無罪
 弁護側の主張は、
1)有罪判決は私たちの敵であるテロリストを守り、私たちの命を守らない。
2)より小さな悪を優先するという考え方は英米の法系統に根付いている。
3)超法規的緊急措置が必要だった。
4)戦争には犠牲がつきものだ。
 だから無罪。
●あなたならどうする?
 どちらも説得力のある議論で判断はとても難しい。あなたならどうするとドラマは迫ってくる。以前に10か国以上で舞台劇として公演された際の観客の審判は圧倒的に無罪が多かったそうだ。今回の番組後の日本での視聴者投票の結果も無罪が有罪の2倍ほどだった。つまりコッホ少佐は7万人の命を救った英雄と考えて人のほうが多かったわけだ。
●それでいいのか?
 しかし私個人として有罪に一票入れたい。なぜなら法治国家がテロに対抗する手段は法しかないからだ。義憤に燃えて私たち自身が決めたことをないがしろにしてしまえば残るのは弱肉強食の無法地帯である。そうなれば私たちも野蛮なテロリストと同じ穴の狢になってしまう。野蛮と野蛮の衝突だ。
 被告が154人を殺害したという事実を消しさることはできない。それに軍人などが憲法に忠実に従っていれば7万人の観客を事前に避難させることもできたはずなのに、彼らはそれをしなかった。そんな判断をみても、テロを口実に軍隊の活動分野を広げることには慎重であるべきだ。
 米国建国の父のひとりベンジャミン・フランクリンは以下のような言葉を残している。「ひと時の安全のために自由を手放すものは、自由も安全も失うことになる」(1759年)

2018/1/14 不協和音の奏者トランプ

(川上高司 拓殖大学海外事情研究所所長) 

 トランプ大統領がまたも差別発言をしたとして、世界中から非難が集中している。1月11日、執務室での会議でトランプ大統領は「なぜ不快極まりない国(shithole countries)からの移民を受け入れる必要があるのか、ノルウェーのような国からの移民なら大歓迎だ」と述べたと報道された。この不快な国というのがアフリカやハイチ、中米諸国を指していたというのである。
 翌日トランプ大統領はツイッターで「そんなことは言っていない」と否定した。だが、世界各国は非難声明を発表し、国連も不快感を表明した。
 しかし、トランプへの非難だけで終わらないのが外交の世界である。すでにアフリカ駐在大使の中には呼びつけられて抗議を受けた国もある。アフリカにはボコ・ハラムというイスラム過激派が存在し、米軍にとってはテロとの闘いのもうひとつの最前線である。最前線の米軍が、地元からの反発を受けて危機にさらされる可能性について認識しているのかも疑問である。外交関係を大きく損なったことは間違いない。
 アメリカの大統領は米軍の最高司令官でもある。米軍では25%が非白人の兵士である。最高司令官の差別志向が軍の中に不協和音を生み出しかねない危険性をトランプ大統領が意識しているのかも疑問である。
 今回の最大の問題点はトランプ大統領なら「言ったに違いない」と誰もが疑わない点である。これまでのトランプ大統領の言動から見れば彼が差別主義者であると誰もが感じている。しかも白人至上主義者でもある。事実に関係なく「トランプだったらあり得る」という不信感が世界に広がっているということである。もはやトランプ個人の資質の問題ではなく、アメリカの国益の問題となっている。2018年の国際社会の中でのアメリカの立ち位置は厳しいものになりそうである。

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