特定非営利活動法人 外交政策センター(FPC)

理事 蟹瀬誠一(国際ジャーナリスト・明治大学教授)

1974年上智大学卒。米AP、仏AFP記者、米『TIME』誌特派員を経て、91年TBS「報道特集」のキャスターとして日本のテレビ報道界に転身。その後、数々の報道番組キャスターを務める。現在は「賢者の選択リーダーズ」メインキャスタ―。2008年から2013年まで明治大学国際日本学部初代学部長。現在は同学部専任教授。(社)価値創造フォーラム21顧問、環境NPOグローバル・スポーツ・アライアンス(GSA)理事、東京クラシッククラブ専務理事

蟹瀬誠一時事解説

ウクライナ危機でトルコン「スルタン」は何を考えているのか

蟹瀬誠一(2022/05/26)

 ロシアのウクライナ侵攻で結束を取り戻したかに見えた北大西洋条約機構(NATO)の足並みが再び乱れ始めている。同盟国内で2番目の軍事力を持つトルコが北欧2カ国のNATO加盟に「待った」をかけているからだ。
 ウクライナ戦争の停戦仲介に意欲を示し続けているトルコがなぜフィンランドとス ウェーデンのNATO加盟に水を差すのか。その背景には今やトルコの「スルタン(皇帝)」と呼ばれる独裁者となったエルドアン大統領の思惑が複雑に絡み合っている。
 その複雑さはウクライナ戦争でのトルコの立ち位置をみてもよくわかる。
 NATOの一員でありながら、トルコは欧米同盟国には従わずロシアに対する経済制裁には参加していない。だがその一方で、ウクライナにはロシアが嫌がる多数の攻撃用ドローン「バイラクタルTB2」などを供与するなど軍事的支援を続けている。  一体どちらの味方なのかといぶかしがられても不思議はない。一言でいえば、「いいとこ取り」をしようとしているのだ。
 就任当時は気さくな庶民派として国民の人気を得たエルドアンだったが、権力を一手に掌握した後は横暴な独裁体制を敷いている。反対勢力は恐怖と暴力で粛正し、悪化の一途を辿る国民経済を尻目に首都アンカラ郊外に東京ドーム4個分の敷地に1000室もあるという公邸を新築した。
 ひたすら自己の権力維持・拡大に邁進しているのである。女性に対する暴力の禁止やジェンダーや性的志向に基づく差別の撤廃を目指す「イスタンブール条約」からも離脱した。
 トルコ司法省のデータによると、エルドアンが大統領に就任した2014年以降、多くの学者や記者、国会議員、裁判官までもが粛正の対象となり、3万5500人以上が大統領侮辱の罪で有罪となっているという。
 類は友を呼ぶというが、そんな強権的なエルドアンは権力を意のままに乱用するロシアのプーチン大統領とは親しい関係だ。2019年のロシア航空産業見本市ではふたりが仲よさそうに笑顔でアイスクリームを食べている姿が象徴的で話題となった。
 欧米の経済制裁に参加しない理由はもちろんそれだけではない。まず、ロシアとの深い経済的な繋がりがある。トルコは天然ガスの国内消費の4割をロシアに依存し、ロシアからの観光客も重要な収入源である。
 軍事的な関係も密接だ。最近では最新鋭の対空防衛システムS400をロシアから購入している。
 その一方でウクライナに軍事支援を続けているのは、クリミア半島に住むトルコと文化的に繋がりが深い少数民族タタール人が抑圧されていることを懸念しているからだ。プーチンにとっては苛立たしいことだろう。しかし欧米の政策が厳しくなる中、トルコがロシア大統領や彼の取巻きのオリガルヒ(新興財閥)の経済的生命線を少なからず握っている今、トルコに喧嘩を吹っかける余裕はないだろう。
 今回、トルコが北欧2カ国のNATO加盟に反旗を翻した表向きの理由は、両国がトルコの反政府武装組織、クルド労働者党(PKK)を支援していること、そしてトルコ向け武器売却禁止措置を行なっていることだ。北欧2カ国のトルコ向け武器禁輸は、トルコが2019年にクルド人武装勢力を攻撃するためにシリア北部に侵入した際に発動されたものだ。
 ホワイトハウスでフィンランドのサウリ・ニーニスト大統領とスウェーデンのマグダレナ・アンディション首相と会談したアメリカのバイデン大統領は、両国のNATO加盟申請を「全面的に、全て、完全に支持する。・・・欧州の安全保障において分岐点になる」と強調した。
 これに対してエルドアンは、北欧2カ国は「テロ組織のゲストハウスのようなものだ。トルコに制裁を科す国の加盟に賛成できない」と激しく非難。だが、その裏にはロシアとの関係を繋ぎ止めたいというエルドアンの下心が見え隠れする。なかなかしたたかな政治家なのだ。
 とはいえ、国内経済は悪化の一途を辿り、与党「公正発展党」の支持率もこれまでの最低レベルまで下がっている。来年6月の大統領選でのエルドアンの再選に黄信号が灯っているのだ。
 そこで、ウクライナ戦争の停戦を仲介することで自らの国際的な影響力と存在感を国民にアピールしたいとエルドアンは思っているのだ。これからも水面下で策を巡らすだろう。ウクライナ戦争の行方はエルドアンの政治生命をも左右する可能性があるからだ。
 「NATOは、ロシアとは戦争せずに(武器供与によって)ウクライナを支える選択をした」とフランスのマクロン大統領を明言した。ウクライナはNATO加盟国ではなく防衛義務が発生しないからだ。しかし2014年のロシアのウクライナ侵攻後から「戦争への備え」は着実に進んでいるという。最悪を避け早期の停戦に向かうことを祈るばかりだ。

ウクライナ:今そこにある核戦争の危機を考える

蟹瀬誠一(2022/05/02)

 「世界規模の核戦争の恐怖は消え去った。ロシアとアメリカは対立から対話の時代に入り、いくつかの重要なケースでは協力関係へと向かっている」
 1991年のノーベル平和賞受賞スピーチでそう高らかに宣言したのは、米ソ冷戦を終結に導いたソ連邦最後の最高指導者ミハエル・ゴルバチョフだった。
 その年の末、人口3億人近い大国ソ連が共産主義という理念とともに消滅しロシア連邦とウクライナを含む15の新しい国家が誕生。世界秩序はそれまでの東西冷戦から米国を中心とした国際協調主義へと一変した。
 世界中の人々が核兵器による人類滅亡の恐怖から解放されたと歓喜し、安堵のため息をついた瞬間でもあった。
 ところが現実には核の脅威は消えていなかった。「使えない」から「使える」核兵器というより危険な形に姿を変えただけだったのである。
 そのことをいちばん知っているのは恐らくウクライナ戦争で劣勢を巻き返す手段として核戦力をチラつかせているロシアのプーチン大統領だろう。
 その証拠に、27日の議会に向けた演説の中でプーチンは「外部から干渉する者は我々の反撃は稲妻のように早いものになることを知るべきだ。・・・必要があれば我々は他国が持たない手段を使うまでだ」と凄んでみせている。あながちハッタリではないところが怖い。
 無謀にみえる彼の強気の姿勢は一体どこから来るのだろうか。
 その答えは米ソ核開発の歴史の変遷から読み取ることができる。振り返ってみよう。

 1945年8月、米国の広島と長崎へ原子爆弾投下はその恐るべき破壊力を世界中に見せつけた。開発を主導した理論物理学者のオッペンハイマーは凄まじい被害を目の当たりにし「我は死神なり、世界の破壊者なり」と深く悔やんだとされる。
 しかし、米国を敵と考えるソ連は4年後に核実験を成功させ、さらに両国は強力な核爆弾の開発競争に邁進していった。
 そして1961年、ロシアはついに「ツァーリ・ボンバ(爆弾の皇帝)」と呼ばれる世界最大の核爆弾の実験を北極海上空で実施し、西側諸国を震撼させた。なにしろたった1発でヒロシマ型原爆の3300倍に相当する巨大爆弾で、その衝撃波は地球を3周するほどのエネルギーだったからだ。
 62年の「キューバ危機」で米ロは全面核戦争瀬戸際の恐怖を味わったが、米国の核攻撃能力は圧倒的にソ連に勝り、冷戦末期まで米国が世界最強の核大国であり続けた。
 ところが皮肉なことに1991年のソ連崩壊から状況は逆転していく。核開発競争から米国が「目をそらした」からだ。イスラム過激派アルカイダによる2001年米国同時多発テロ事件をきっかけに米国はアフガニスタン戦争に泥沼にのめり込んでいった。2003年にはイラクにも侵攻。米国の軍事的関心は核よりも通常兵器による対テロ戦争へと移っていったのである。
 冷徹な戦略家で筋金入りの国家主義者であるロシアのプーチン大統領はそんな米国の状況を見逃さなかった。大国ロシアの威信を取り戻すべく着々と自国の核攻撃能力を強化していった。
 現在、ロシアは通常兵器では未だに量と質で米国の劣っているものの、核弾頭数と多様な核攻撃手段で米国をすでに凌駕している。
 ストックホルム国際平和研究所の推計によれば、米国の核弾頭保有数が5550発であるのに対しロシアは世界最多の6255発を所有。両国は2011年に発効した新戦略兵器削減条約を締結しているものの、実質的に機能していない。
 そんな中、ウクライナ戦争勃発で米国が最も恐れているのはロシアが持つ小型の核兵器、いわゆる戦術核や低出力核兵器だ。厳密な定義はないが、戦略核のように強大な威力で街全体を破壊するのではなく、480キロ程度の短射程で敵の戦車や軍事拠点をピンポイントで撃破するのが目的の「使える核兵器」のことである。現在も規制する国際条約が存在しておらず、危険極まりない代物である。
 じつは冷戦期にすでに米ソは何千発という小型核兵器を開発していた。局地戦争に対応するためだ。しかし通常兵器にシフトした米国は冷戦終結後にほとんどの戦術核を解体し、欧州から撤収したという。米議会調査局によると、現在米国が保有している戦術核数は200発。そのうちおよそ100発がNATO加盟国に配備されている。それに対しロシアはその10倍の2000発程度を保有し、その大半はNATO加盟国との国境に近いロシア西部に配置されている。
 しかも、小型核で攻撃する際に、米国は軍用機から落とす重力爆弾しかないのに対し、ロシアは潜水艦魚雷、水陸弾道ミサイル、砲弾、爆撃機など様々な手段を持っているのだ。
 「(戦術核 に関して)彼らは米国より多彩な攻撃能力を持っている」と、元米国中央軍司令官ケネス・マッケンジー・ジュニアは米国メディアの取材で認めている。
 こうして見てくると、核兵器使用をタブー視していない独裁者プーチンがなぜ強気の発言に終始しているか分かるだろう。
 「追い込まれたプーチンが戦術核や低出力核兵器を使うという脅しを軽視してはいけない」と、CIA長官で前ロシア大使だったウイリアム・バーンズが警告しているのも頷ける。
 ウクライナ侵攻で親欧米ゼレンスキー政権転覆に失敗したプーチンは、プランBとして親ロシア派分離主義勢力が掌握する東部のドンバス地域の「解放」を目指して攻撃を強めている。しかし、一方的な勝利宣言を目論んでいる5月9日の戦勝記念日には間に合いそうもない。
 米国のバイデン大統領はプーチンを「戦争犯罪人」や「虐殺者(Butcher)」だと激しく非難し、ロシア側は猛反発している。米国防総省によれば、過去2ヶ月ですでに25%の兵力を失っているという。戦力不足を補い敵の戦意を喪失させるためにプーチンが戦術核を使う可能性は決してゼロではない。もし核が使用されれば第2次世界大戦以来となる。
 狡猾な謀略家のプーチンのことだから、最初の攻撃は恐らくウクライナ軍に対してではなく、遠隔地で核兵器を炸裂させて恐怖心を煽るのではないか。
 マサチューセッツ工科大学(MIT)名誉教授で世界的な反戦知識人であるノーム・チョムスキーは、核戦争を避けるためにはウクライナがロシアに譲歩すべきだと訴えている。だが、強硬なウクライナのゼレンスキー大統領にそのような妥協が可能だろうか。5月9日に向けて不安は広がるばかりだ。

戦争は人の心の中から始まる

蟹瀬誠一(2022/04/01)

 ロシアのウクライナ侵攻が続く中、ドキュメンタリー映画『Winter On Fire』(2015年、ウクライナ・米・英共同制作)が再放送されて話題となっている。
 2013年11月18日から翌年2月23日までウクライナの首都キエフで起きた「マイダン革命」と呼ばれた流血の反政府運動を93日間に渡って記録した迫真のドキュメンタリーだ。
 武装した治安部隊との衝突で多くの市民が犠牲になっても独裁者に立ち向かったウクライナ市民の勇姿が生々しく描かれている。映像の中には、国を食い物にした親ロシア派のヤヌコビッチ大統領が密かにロシアに逃亡する姿もあった。
 じつは、ロシアのプーチン大統領のウクライナ戦争はこのキエフ騒乱から既に始まっていた。
 ウクライナはロシアの一部だと信じて疑わないプーチンにとって、ヤヌコビッチ追放は到底許せることではなかった。しかも後継者がオリガルヒ(新興財閥)で反政府デモを支援したポロシェンコだったからなおさらだ。
 激怒したプーチンは「ロシア系住民保護」を口実にクリミア半島に侵攻し、一方的に併合した。すると彼のロシア国内での支持率は8割まで急上昇。帝政時代からクリミアはロシアの宗教・歴史・文化の聖地だと思っているロシア国民が多いからだ。
 さらにウクライナ東部の紛争地域ドンバスにも「平和維持」のためと称してロシア軍を送り込み新政権に揺さぶりをかけた。
 2015年2月、東部紛争を巡る停戦合意、いわゆる「ミンスク合意」がようやくまとまった。だがその後もウクライナ政府軍と親ロシア武装勢力は戦闘と停戦を繰り返した。
 一方、反ロシア一辺倒のポロシェンコ政権に愛想を尽かしたウクライナ国民は、2019年の大統領選で政治経験のないコメディ俳優ゼレンスキーを選ぶ。
 だが、それが戦争の火種を燃え上がらせる結果になるとは誰も予想できなかった。
 当時、ゼレンスキーは政治風刺テレビドラマ『国民の僕(しもべ)』で主役を演じ大人気だった。さえない高校教師がひょんな事から大統領に選ばれて腐敗政治と闘う話だ。
 ゼレンスキー陣営は『国民の僕』を政党名にし、腐敗政治に怒る国民が劇中の大統領のイメージと現実のゼレンスキーを重ね合わせるようにしむけて、国民の期待を膨らませた。番組は選挙直前まで放送された。
 じつは、放送したテレビ局のオーナーはポロシェンコに私怨をもつオルガルヒ(新興財閥)のコロモイスキーだった。彼は同じユダヤ人であるゼレンスキーを裏から支援していたのである。
 しかし、実際のゼレンスキーは高級車を乗る金持ちで、政治経済の知識が乏しかった。ドラマのようにはウクライナが直面する問題を解決できず、支持率は20%台まで低迷した。
 当初、ゼレンスキーは東部紛争の停戦履行に積極的だった。そのため国民、とくにロシア語圏の東部や南部で、ロシアとの関係改善への期待が高まった。
 だが民族派から突き上げられた彼は反ロシア・ナショナリズムに転じてしまう。「ミンスク合意」を反故にし、親ロシア派の武装勢力が占領する東部地域の独立を拒否したのだ。
 それだけではない。ウクライナ政府軍が親ロシア派勢力の攻撃に初めてトルコ製ドローンを使った映像まで公開した。「ロシアの挑発に乗るな」と欧米は苦言を呈したようだが、ゼレンスキーは「領土と主権を守る」と強気だった。
 それがロシアを刺激しないわけがない。
 2020年秋に戦闘が再燃した旧ソ連圏の係争地ナゴルノカラバフでアゼルバイジャンが親ロシアのアルメニアを破った「秘密兵器」がトルコ製ドローンだったからだ。さらにゼレンスキーはトルコ製ドローンの調達を進め、トルコと共同開発にも合意したという。
否が応でも緊張は高まった。
 2021年3月、ウクライナ国境付近での演習を終えたロシア軍はその後も留まり続けた。当時約4000人と推定された兵力は4月中旬には10万人以上に膨れ上がった。
 そして運命の2月24日、ロシア軍は3方面から猛攻撃を開始。誰もが予想していなかった世界を震撼させる容赦ない無差別全面攻撃が始まったのである。
 ゼレンスキーは国民総動員令を発して18歳から60歳の男性市民の出国を禁止し、ロシアとの徹底抗戦を訴えた。テレビ局は火焔瓶の作り方を教える番組を流し、危険承知で外国人義勇兵まで募集している。
 ネットメディアを巧みに使い、カーキ色のTシャツ姿で現れたゼレンスキーはそれまでの不人気から一転して「英雄」扱いされるようになった。背後にメディア戦略に長けた組織が存在するのではないか。
 ウクライナ軍は大方の予想外に強い抵抗を見せた。しかし、その代償は大きい。
 凄まじい破壊と殺戮である。現地メディアによるとロシア軍の無差別攻撃で南東部の港湾都市マリウポリだけで5000人以上の民間人が死亡したという。
 停戦交渉が繰り返されている。だが北極熊と野ウサギのように力の差があまりにも大きい2者の争いの仲裁は極めて難しい。平和実現のために弱者は妥協を強いられ、強者の国際法違反はうやむやになることも多いのが現実だ。
 ロシアの攻撃が止まない背景にはいくつか理由がある。
 ひとつは世論調査で過半数のロシア国民がプーチンの行動を支持していること。そして西側が武器と資金を送り込むだけで、実際の戦場にはウクライナが取り残されていることだ。
 さらには、エネルギー資源や穀物をロシアに依存するEU諸国が制裁に腰が引けていること。中間選挙を控えたバイデン米政権が戦術核使用も辞さないロシアと本気で事を構えたくないこともある。
 首都キエフのニュースサイト「ウクライナの新しい声」編集長のベロニカ・メルコゼロバは言う。「プーチンはウクライナを独立国だと思っていない。だから欧州の自由な国として存続させるくらいなら破壊したいと思っている」と。
   その言葉が事実なら、無益な戦争はまだ続く。
 厄介なのは現代の戦争が武力だけでなくサイバー戦、情報戦などを組み合わせた「ハイブリッド戦」になっていることだ。とくに情報戦による隠蔽や「偽旗作戦」によって真贋を見分けることが極めて困難になっている。
 それは取りも直さずジャーナリズムの真価が問われるところでもある。
 戦争は人の心の中で始まる。戦争に完全な善もなければ悪もない。ただあるのは勝者と敗者、そして憎悪と深い悲しみだけだ。ロシアの無差別な殺戮は決して許されないが、単純に勧善懲悪の構図だけで国際紛争をみるのは危険だ。(終)

北國民主党ボストン

蟹瀬誠一(2019/08/10)

 イギリスの清教徒たちが自由な新世界を求めて17世紀に上陸したマサチューセッツ州の州都ボストンを久しぶりに訪れた。トランプ政権下、米国独立の原点で故ケネディ大統領生誕の地でもある街でどんな変化が起きているか知りたかったからだ。
 折から2020年大統領選の民主党候補テレビ討論会がデトロイトで行われていた。ステージに立ったのは、前副大統領や上院・下院議員、州知事、市長、企業家、ベストセラー作家など20人の多彩な顔ぶれ。その中で脚光を浴びた候補のひとりにリベラル色を強く打ち出すマサチューセッツ州選出のエリザベス・ウォーレン上院議員(70)がいた。移民問題や健康保険制度に関して一部の候補から攻撃を受けたが、みごとな切り返しで形勢を逆転。知的な話しぶりで、寛容な移民政策の必要性と大企業や富裕層へ増税などを財源にして国民皆、保険制度の導入を主張していた。
 1949年、オクラホマ州オクラホマシティで決して豊かではない家庭の末っ子として生まれたエリザベスは、13歳の頃から祖母が経営するレストランで働き始めている。若くして論客としての才能を発揮し、高校生の時に州内のデベート・コンクールに優勝し、奨学金でジョージワシントン大学に進学。二児を出産後に司法試験に合格し、名門ハーバード大学法学教授も務めた努力家だ。2012年、マサチューセッツ州初の女性上院議員に選出され、地元のボストン・グローブ紙が「2020年の大統領選挙が期待できる」と書いたが、その通りになった。
 現時点の世論調査では、オバマ政権で副大統領を務めたジョー・バイデン候補が先頭を走っている。しかし最終的に民主党候補が選出されるのはまだまだ先のことだから何が起きるかわからない。6月下旬から2020年4月までに最大12回行われる予定の予備討論会や、2月から6月まで各地で開催される党員集会、予備選挙を勝ち抜いてようやく7月13日~16日の民主党全国大会で最終的に候補者が選出される。莫大な資金力と体力、精神力が求められる過酷なマラソン・レースなのだ。だが、そのお陰で有権者は候補者の人となりや考えをじっくりと吟味できる。
 迎え撃つ共和党は、今のところ現職のトランプ大統領が圧倒的に有利だとみられている。あれだけ傍若無人に振る舞い、下劣な性・人種差別発言や嘘を繰り返しているのに何故と思われるかもしれない。だが、それほど米国内の経済格差や移民問題、宗教的対立などによる分断が深刻なのだ。
 それを大統領は逆手にとって再選戦略の中心に置いている。先月末、トランプ氏は自分に批判的な民主党下院議員の黒人が多い選挙区を「ネズミまみれの、ひどいところ」と罵った。あからさまな人種差別である。それでも、ボストン郊外で話を聞くとトランプ支持という有権者がいた。暗澹たる気持ちでその場を後にした(終)

ブレグジットにロシアの影

蟹瀬誠一(2019/05/13)

 EU離脱を巡って英国が迷走している。
 元はといえば、3年前に難民問題で窮地に立たされたキャメロン前首相が目先の選挙対策のために離脱の是非を問う国民投票に打って出たからだが、その裏に怪しげな資金を使った離脱の立て役者がいた。
 資金力にものを言わせて離脱を後押しした英実業家で富豪のアーロン・バンクスだ。
 バンクスは、右翼の英国独立党(UKIP)のファラージ党首とともに、「リーブEU(EUを去れ)」という急進的な離脱運動団体を設立し、同国史上最大の800万ポンド(約11億6千万円)もの政治資金を供与した。
 だがその資金の出所はロシアではないかという疑惑が浮上、現在は国家犯罪対策庁(NCA)の捜査対象となっている。
 手口は、「移民は侵略者だ」というような過激なメッセージをソーシャルメディアで拡散して有権者の恐怖を煽るという2016年米大統領選のロシア介入と酷似。バンクスは容疑を否定しているが、英ガーディアン紙によると、ロシア人女性を妻にもつ彼は国民投票前に駐英ロシア大使や要人と頻繁に接触していた。
 また、同氏はトランプの大統領当選を祝うためニューヨークのトランプ・タワーに駆けつけた最初の英国人でもある。捜査結果次第では国民投票やり直しの可能性もゼロではない。恐ろしいのは欧米に広がるロシアの影だ。

朝鮮半島雪解け

蟹瀬誠一(2018/03/10)

 焦り、恐れ、それとも策略? 最近まで一触即発の戦争前夜だと政府もマスコミもこぞって大騒ぎしていた朝鮮半島が今や降って湧いたような雪解けムード。武力衝突を煽っていた方々はさぞかし慌てていることだろう。
 じつは平昌五輪参加を機に北が韓国に対して平和攻勢を仕掛けてくるという話は早くから日韓の専門家の間で囁かれていた。それでもこの変わり身の早さはびっくりである。次々と弾道ミサイルを発射し6度目の核実験も強行した金正恩が破顔一笑で韓国特使団を迎え入れたかと思えば、4月には南北首脳会談を開催するというではないか。しかも軍事境界線にある板門店で!
 さらに大ニュースが飛び込んだ。訪米した韓国特使がホワイトハウスで声明を読み上げ、トランプ米大統領が5月までに金氏と会談することに応じたと発表。北が「非核化」の意向を表明し、今後は核実験や弾道ミサイル発射を自制すると約束したからだという。米大統領の決断を韓国特使がホワイトハウスの外で発表するというのは私の知る限り前代未聞だ。
 この段取り上手はどうしたことか。金正恩はてっきり暗殺を恐れて昼夜逃げ回っていると思っていたのに。どんな嘘も真実になり得る時代はこれだから始末に悪い。
 今回のデタント劇は、五輪に代表団を送る用意があるという金正恩の元旦発言から始まっている。これでスポーツの祭典は一瞬にしてホットな外交の舞台へと変容した。訪韓した北朝鮮政権幹部の中でとりわけ注目を集めたのは、「美女応援団」とともに姿を現した金正恩氏の妹、金与正。韓国政府が彼女のために「国賓A」と呼ばれる最高レベルの警備体制を敷いたことからも最重要人物であったことが分かる。ちなみにペンス米副大統領は「B」、トランプ大統領の娘イバンカは「C」ランクだったという。ちょっと笑ってしまった。
 端正な顔立ちの金与正は笑みを浮かべながら「親北」の文在寅韓国大統領に訪朝を促し、米韓関係に楔を打ち込んだ。みごとな「微笑み外交」である。韓国政府関係者の話として、彼女を訪韓させたのは北朝鮮が南北関係の改善を通じて制裁圧力を突破しようとしている傍証だという解説までつけて。
 それだけではない。金正恩は、朝鮮半島の非核化のために米国と虚心坦懐に話し合う用意があり、対話継続中は核実験やミサイル発射はしないというメッセージを韓国特使団を通じて世界にしたたかに発信。外交のボールを米国のコートに投げ返して、米国の先制攻撃を封じた。
 機先を制されたトランプ大統領には米朝首脳会談への招待状まで用意されていた。この餌にトランプ氏は独断で食いついた。国務省にもペンタゴンにも相談なしに。実際の実務交渉は誰がすると思っているのだろう? 何しろ無原則でスタンドプレーが大好きな大統領である。世間の目を不倫スキャンダルやロシアゲート疑惑からそらすことが出来れば有利だと考えたに違いない。ひょっとしたらノーベル平和賞まで夢見ているかも。そういえば、韓国初のノーベル賞受賞者は2000年に第1回南北首脳会談を実現した金大中大統領だった。ただ、金で買ったのではとの批判が絶えない。首脳会談実現のために500億円以上を金正日に送金したという疑惑が晴れていないからだ。文大統領は五輪協力費として北に気前よく2億8000万円を供与している。首脳会談はどうだろうと思わず邪推してしまう。
 いずれにせよ、北朝鮮は石油がないから戦争が出来ない。一番恐れているのは米国の奇襲攻撃による体制崩壊だ。それを防ぐには核武装しかないというのが一貫した北の考えである。その目的達成まで、とにかく脅しとはったりを利かして時間を稼いでいくだろう。武力衝突が起きるかどうかは米国次第だ。
 残念ながらこれまでの朝鮮半島をめぐる米国の交渉は失敗の連続。米国の担当者が目先の成果を狙うあまり部分的な合意しか出来なかったこと、そして北朝鮮が何度も約束を破って核開発を続行してきたことが主な理由である。「軍事的脅威が解消し、体制の安全が保証されれば核開発の必要がない」という北朝鮮の言葉の裏には、相変わらず「核武装、在韓米軍の撤退、朝鮮半島武力統一」という野望が透けて見える。
 さてトランプはどうするのか。彼の周りにはミサイルを撃ちたくてうずうずしている強行派もいるが、トランプ自身は悲惨な核戦争を始める度胸はないだろう。お得意のツィッターで以前にこうつぶやいていた。
 「どうして金正恩は僕を『老いぼれ』と呼んで侮辱するんだ。僕は絶対に向こうを『チビでデブ』なんて呼ばないのに。まあいいや。友達になろうと、こちらはこんなに努力している。いつの日かはそうなるかもね!」(終)

理事時事解説を読むに戻る